2010年 07月 17日
世界の潮流 |
改正臓器移植法がきょうから施行された。法案が成立してからちょうど1年経った(09年6月「臓器移植」参照)。人の死生観には様々な意見があり、難しい問題もあるが、漸く日本でも子どもの臓器移植が法的に可能となった。年間の脳死者は数千人もいるといわれている。家族の受けとめ方も微妙で、今後どれだけ臓器移植が増えるかは疑問だ。
従来の法律では、本人と家族の双方が承諾していないと移植はできなかった。もっとも本人が15歳未満の場合、その意思すら認められなかった。改正法では、本人が意思を明確にしていなくても、家族が了承すれば、年令に関係なく移植ができるようになった。
すでにほとんどの国では、脳死を「人の死」とする考え方が定着している。これが世界の潮流である。脳死は脳幹まで不能の状態にあることで、脳のすべての機能が失われており、元に戻ることはあり得ない。自分で身体を動かすことは不可能で、呼吸もできない状態だ。仮に生かし続けるなら人工呼吸器が必要だ。それであっても、いずれ心臓も停止する運命となる。
これに対し「植物人間」は、脳幹まではやられていない状態だ。栄養さえ補給しておけば、自力で呼吸は可能である。まるで眠っているように見え、運が良ければ回復することもあり得る。脳死は心臓はまだ止まっていないが、ほとんど「死」に近い状態で、間もなく確実に「死」を迎える。
心臓が止まってから臓器を取り出して移植するのは、時間的にも技術的にも無理がある。どうせ「死」なら、心臓が動いている間に移植をする方が効果がある。後は、家族の心の整理の問題である。心臓が動いており、体も暖かいのに「死」と判断するには、一般的には抵抗がある。
脳死判定の基準について、医者や専門家の間にも異論がある。ワガハイの疑問は、もし限りなく脳死の状態であっても、脳死の判断が出せない場合、どうするのかということだ。生かし続けるには、機械仕掛けが不可欠で、膨大なコストが掛かる。放っておけば即、死である。対処の仕方を誤れば殺人罪にもなりかねない。
体のどこかが動いているだけで「生」と判断すること自体、不自然である。知人の見舞いなどで病院に行くと「死に体」の老人がごろごろしている。無理に生かされており、本人にとって幸せかどうかわからない。ワガハイの母親も、末期に「なかなか死ねない」と苦しんでいた。臓器移植を併せて安楽死のあり方も考えるべきだ。
従来の法律では、本人と家族の双方が承諾していないと移植はできなかった。もっとも本人が15歳未満の場合、その意思すら認められなかった。改正法では、本人が意思を明確にしていなくても、家族が了承すれば、年令に関係なく移植ができるようになった。
すでにほとんどの国では、脳死を「人の死」とする考え方が定着している。これが世界の潮流である。脳死は脳幹まで不能の状態にあることで、脳のすべての機能が失われており、元に戻ることはあり得ない。自分で身体を動かすことは不可能で、呼吸もできない状態だ。仮に生かし続けるなら人工呼吸器が必要だ。それであっても、いずれ心臓も停止する運命となる。
これに対し「植物人間」は、脳幹まではやられていない状態だ。栄養さえ補給しておけば、自力で呼吸は可能である。まるで眠っているように見え、運が良ければ回復することもあり得る。脳死は心臓はまだ止まっていないが、ほとんど「死」に近い状態で、間もなく確実に「死」を迎える。
心臓が止まってから臓器を取り出して移植するのは、時間的にも技術的にも無理がある。どうせ「死」なら、心臓が動いている間に移植をする方が効果がある。後は、家族の心の整理の問題である。心臓が動いており、体も暖かいのに「死」と判断するには、一般的には抵抗がある。
脳死判定の基準について、医者や専門家の間にも異論がある。ワガハイの疑問は、もし限りなく脳死の状態であっても、脳死の判断が出せない場合、どうするのかということだ。生かし続けるには、機械仕掛けが不可欠で、膨大なコストが掛かる。放っておけば即、死である。対処の仕方を誤れば殺人罪にもなりかねない。
体のどこかが動いているだけで「生」と判断すること自体、不自然である。知人の見舞いなどで病院に行くと「死に体」の老人がごろごろしている。無理に生かされており、本人にとって幸せかどうかわからない。ワガハイの母親も、末期に「なかなか死ねない」と苦しんでいた。臓器移植を併せて安楽死のあり方も考えるべきだ。
by everyoung
| 2010-07-17 21:29
| 言いたい放題
|
Comments(0)