2014年 04月 26日
民度の低さ |
韓国のフェリー「セウォール号」の沈没事故は、発生から10日近く経った。捜索活動が続いているが、生存者の発見はなく、最終的に死者は300人を越える見通しとなった。対応の不手際が目立ち、パク・クネ政権は苦境に立たされている。
現地にいたわけではないので、報道で判断するしかないが、事故が発生してから沈没までにかなりの時間があった。現場は珍島に近く、短時間でもっと万全な救助態勢が取れたはずだ。高校の修学旅行生が乗っており、多くの若い命を無駄にしてしまった。
フェリーには、定員の倍以上を収容できる救命ボートが備えられていた。これがほとんど降ろされていない。救命胴衣も着けない客が多かった。ボートや救命胴衣の扱い方自体を、船員や客も知らなかったフシがある。客はともかく、船員もちゃんとした救助訓練などしていなかったことが惨事を招いた。
不思議なのは、沈没までの間に船員は率先して逃げたようだが、客は何をしていたのかということだ。救命胴衣でなくても、そこらの適当な浮遊物を掴んで海に飛び込めなかったのか。救助要請は、比較的早い段階に出されていた。軍や政府がコトの重大性にすぐに気付いていれば、ヘリや高速艇を数多く飛ばし、客のかなりの数を救出できたではなかろうか。
航空機の場合とは異なり、船舶の事故は、沈没までにある程度の時間的余裕がある。今回のケースでも、船が傾きながらゆっくりと沈んで行った。傾斜した船内での行動には制限はあるだろうが、すぐに命を奪われることは少ない。その間に何をするかで生死が分かれる。
地元メディアは、船長や船員、政府の対応などについて「三流国」と自嘲している。調べれば調べるほど、ルール無視や対応のお粗末さが露呈するからだ。随分高い評価をしたものだ。ワガハイは朝鮮人の民度は、もともと「四〜五流」がいいとこだとの認識だ。
この事故で思い出したのは、瀬戸内海での「紫雲丸事故」だ。このフェリーは5度も事故に遭遇。最後の事故では168名が犠牲になった。紫雲山に因んで付けられた名前だが、「仏が雲に乗って迎えに来る」との仏教的意味がある。縁起が良くないとされ、一部では「死運丸」とも呼ばれていた。悲運の船舶だったが、引き揚げられて「瀬戸丸」に名称変更した後は、なぜか事故には遭わなかった。
ちょうどこの事故の直後に、ワガハイは小学校の修学旅行で瀬戸内海を渡った。金比羅に参って、屋島に行き、帰りに岡山の後楽園に寄り、天満屋でお土産を買うのが、当時の定番コースであった。「紫雲丸」の沈没現場の横を通った時、ワガハイが乗った宇高連絡船は、僚船に向けて哀悼の汽笛を鳴らした。いまでも耳の奥に「ボ〜」という悲し気な響きが残っている。
現地にいたわけではないので、報道で判断するしかないが、事故が発生してから沈没までにかなりの時間があった。現場は珍島に近く、短時間でもっと万全な救助態勢が取れたはずだ。高校の修学旅行生が乗っており、多くの若い命を無駄にしてしまった。
フェリーには、定員の倍以上を収容できる救命ボートが備えられていた。これがほとんど降ろされていない。救命胴衣も着けない客が多かった。ボートや救命胴衣の扱い方自体を、船員や客も知らなかったフシがある。客はともかく、船員もちゃんとした救助訓練などしていなかったことが惨事を招いた。
不思議なのは、沈没までの間に船員は率先して逃げたようだが、客は何をしていたのかということだ。救命胴衣でなくても、そこらの適当な浮遊物を掴んで海に飛び込めなかったのか。救助要請は、比較的早い段階に出されていた。軍や政府がコトの重大性にすぐに気付いていれば、ヘリや高速艇を数多く飛ばし、客のかなりの数を救出できたではなかろうか。
航空機の場合とは異なり、船舶の事故は、沈没までにある程度の時間的余裕がある。今回のケースでも、船が傾きながらゆっくりと沈んで行った。傾斜した船内での行動には制限はあるだろうが、すぐに命を奪われることは少ない。その間に何をするかで生死が分かれる。
地元メディアは、船長や船員、政府の対応などについて「三流国」と自嘲している。調べれば調べるほど、ルール無視や対応のお粗末さが露呈するからだ。随分高い評価をしたものだ。ワガハイは朝鮮人の民度は、もともと「四〜五流」がいいとこだとの認識だ。
この事故で思い出したのは、瀬戸内海での「紫雲丸事故」だ。このフェリーは5度も事故に遭遇。最後の事故では168名が犠牲になった。紫雲山に因んで付けられた名前だが、「仏が雲に乗って迎えに来る」との仏教的意味がある。縁起が良くないとされ、一部では「死運丸」とも呼ばれていた。悲運の船舶だったが、引き揚げられて「瀬戸丸」に名称変更した後は、なぜか事故には遭わなかった。
ちょうどこの事故の直後に、ワガハイは小学校の修学旅行で瀬戸内海を渡った。金比羅に参って、屋島に行き、帰りに岡山の後楽園に寄り、天満屋でお土産を買うのが、当時の定番コースであった。「紫雲丸」の沈没現場の横を通った時、ワガハイが乗った宇高連絡船は、僚船に向けて哀悼の汽笛を鳴らした。いまでも耳の奥に「ボ〜」という悲し気な響きが残っている。
by everyoung
| 2014-04-26 10:05
| 言いたい放題
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