2011年 04月 05日
動画の威力 |
東日本大震災が発生してから1ヶ月近くになろうというのに、依然として新聞紙面には被災地の大きな写真が連日掲載されている。「写真誌」ではないかと錯覚するほどだ。さすがに最近は、瓦礫の山や津波のツメ跡だけでなく、復興へ向けての「がんばり」ぶりが報じられるようになった。
今回の震災の特徴は、津波による被害が圧倒的だったことだ。住宅地に押し寄せる津波を、テレビが繰り返し放映した動画には迫力があった。静止画でも動画でも、現場にいなければ絶対に撮れない。生死に係る混乱時に、よくこれだけの映像が撮れたものだと感心する。
静止画は、事後でも現場を撮ることが可能だ。動画はそうはいかない。ほとんどの動画映像は、津波に追われた視聴者が、逃げる途中か避難場所から撮ってテレビ局に提供したものだ。テレビ局のスタッフがいち早く駆けつけても、その瞬間を撮るのは無理だ。
視聴者の中には、ビデオカメラを持って逃げた者もいたかも知れないが、大部分は手持ちの携帯電話の動画機能を利用して撮ったものと推定される。ビデオや携帯は小型化、多機能化しており、素人でもプロ並みの映像を撮ることが可能だ。技術革新がこういう所にも影響を及ぼしている。
テレビ局スタッフは、現場取材中に動画を撮った視聴者がいることを知り、競争社と競い合って手に入れたのであろう。提供に対価を払ったのか、タダで借りたのかは寡聞にして知らない。それにしても、自分の家族や知人、家屋敷や田畠が流されて行くのを、どんな気持ちで撮影していたのか。心境、察するに余ある。
動画映像では、津波の進路だけでなく、威力や怖さがよく分かる。専門家が詳細に分析すれば、今後の防災対策に大きく役立つことになる。国内外を含め、過去に津波の被害は何度もあった。今回ほど、臨場感のある動画は見たことがない。貴重な資料として国際的な価値がある。
動きが記録されると、全体の状況が把握し易い。事件や事故では、動画が静止画に比べ圧倒的に有利である。カメラマンが、いくらシャッターチャンスを狙って静止画を撮っても、動画の一コマに過ぎない(09年12月「ビデオ派」参照)。
新聞などの紙媒体は、残念ながら動画を掲載することができない。仕方がないので、静止画を山ほど掲載。記事の「説明」に使うか、あるいはその逆で、静止画の「キャプション」として記事を使うかしかないのだ。津波は、改めて動画の存在感を示した。
今回の震災の特徴は、津波による被害が圧倒的だったことだ。住宅地に押し寄せる津波を、テレビが繰り返し放映した動画には迫力があった。静止画でも動画でも、現場にいなければ絶対に撮れない。生死に係る混乱時に、よくこれだけの映像が撮れたものだと感心する。
静止画は、事後でも現場を撮ることが可能だ。動画はそうはいかない。ほとんどの動画映像は、津波に追われた視聴者が、逃げる途中か避難場所から撮ってテレビ局に提供したものだ。テレビ局のスタッフがいち早く駆けつけても、その瞬間を撮るのは無理だ。
視聴者の中には、ビデオカメラを持って逃げた者もいたかも知れないが、大部分は手持ちの携帯電話の動画機能を利用して撮ったものと推定される。ビデオや携帯は小型化、多機能化しており、素人でもプロ並みの映像を撮ることが可能だ。技術革新がこういう所にも影響を及ぼしている。
テレビ局スタッフは、現場取材中に動画を撮った視聴者がいることを知り、競争社と競い合って手に入れたのであろう。提供に対価を払ったのか、タダで借りたのかは寡聞にして知らない。それにしても、自分の家族や知人、家屋敷や田畠が流されて行くのを、どんな気持ちで撮影していたのか。心境、察するに余ある。
動画映像では、津波の進路だけでなく、威力や怖さがよく分かる。専門家が詳細に分析すれば、今後の防災対策に大きく役立つことになる。国内外を含め、過去に津波の被害は何度もあった。今回ほど、臨場感のある動画は見たことがない。貴重な資料として国際的な価値がある。
動きが記録されると、全体の状況が把握し易い。事件や事故では、動画が静止画に比べ圧倒的に有利である。カメラマンが、いくらシャッターチャンスを狙って静止画を撮っても、動画の一コマに過ぎない(09年12月「ビデオ派」参照)。
新聞などの紙媒体は、残念ながら動画を掲載することができない。仕方がないので、静止画を山ほど掲載。記事の「説明」に使うか、あるいはその逆で、静止画の「キャプション」として記事を使うかしかないのだ。津波は、改めて動画の存在感を示した。
by everyoung
| 2011-04-05 20:57
| 言いたい放題
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