2017年 08月 29日
羽田氏逝く |
あの「省エネルック」がトレードマークだった羽田孜元首相が他界された。体調が良くないと伝えられていたが、死因は老衰によるものだった。平均寿命が延びているが、80を過ぎるとくたばるケースが多い。今のうちに遊んでおかなきゃ。
亡くなる前日、仲間とのバイクツーリングを終えて、ひとり上田から佐久方面に向かっていた。上田は羽田氏の地盤で、一時は「羽田王国」とも呼ばれていた。たまたま、そんなことを想い出しながら走ったばかりであった。
羽田氏とは仕事の関係で、お世話になったことがある。九段の議員宿舎にも何度かお邪魔した。話好きで、将来構想を熱っぽく語っていた。「ボンボン」的な発想が多く、あまり感動するような内容ではなかったように記憶している。
政治家の登竜門は政務次官(当時)だ。この時代に政策をしっかり勉強して将来に繋げる。このポストをこなした後は、党の部会長や委員会の要職を務め、大臣への道に進む手順となる。
ワガハイが知り合ったのは、政務次官を終了して、党で活躍している頃だ。丁度、日米「牛肉・オレンジ戦争」が真っ盛りだった。羽田氏は、「農林族」として交渉に尽力。それが認められ、農水大臣として初入閣を果たした。
その後、小沢一郎氏らと自民党を離党。細川護煕内閣を支えた。細川氏はスキャンダルで辞任。連立与党は、後継首相に羽田氏を擁立。首相に指名された。その前後から連立の一角を占める社会党との折り合いが悪く、結局、社会党が離脱して少数与党のまま羽田内閣が発足した。
政権が不安定で、自民党からの内閣不信任案の提出を見越して、羽田氏は総辞職を決断。短命内閣に終わってしまった。わずか64日の天下で、戦後では2番目に短い在籍だった。成果は「省エネルック」だけだったような気がする。
折からの新党ブームに乗って、新生党から新進党、太陽党、民政党、民主党、民進党と渡り歩いた。党名も覚えきれないほどだ。時々の志は立派だが、本当は何を目指していたのかよくわからない。
小泉純一郎氏もそうだったが、羽田氏も宰相の器でない。周りに担ぎ上げられて首相の座を占めたが、どちらかと言えば、指導者よりは参謀役か調整役の方が合っている。まさか首相になるとは、本人はもちろん家族も思ってもみなかったであろう。
父親の武嗣郎氏は、朝日新聞の記者を経て政界入りした。孜氏は、父親の故郷である長野に疎開。高校も名門進学校の上田高校を狙ったが受験に失敗。東京の成城学園から、ところてん式に同大学を卒業した。父親同様に新聞記者を志望して朝日や日経も受けたがいずれも失敗。小田急バスにコネで就職した。
名前の「孜」は、「孜孜(しし)として働く」という言葉から取ったとか。凡人には、すぐには読めない字だ。夫人の綏子(やすこ)さんの字も難しい。辞書でも引かなければわからない。
ワガハイが羽田邸に出入りしていたころ、子息たちは小学生だった。礼儀正しく活発な子であった印象がある。長男の雄一郎氏は、今や民進党の参院議員だ。3代続いての政治家である。雄一郎氏の政治信条は、孜氏とはやや違うようだ。あの世で、孜氏は苦笑しているかもしれない。
by everyoung
| 2017-08-29 20:19
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