2018年 06月 06日
時代の変化 |
世の中で、「絶対」と言い切れることは何もないが、一つだけある。それは、生きているものは必ず死ぬということだ。どこで、いつ、どんな形で死ぬかは誰もわからない。ワガハイも、運が良ければ、後10年ぐらいは生きるかも知れない。そうであれば、「メデタメデタ」であろう。
先日、コマツの元社長で、会長であった安崎暁氏が亡くなられた。享年81歳。氏は、昨年11月に胆嚢がんの末期であることが判明。「元気なうちに感謝の気持ちを表したい」ということで、個人で新聞広告を出して12月に「感謝の会」(生前葬)を設けた。
氏の場合、「余命何ヶ月」という時期的な余裕があった。死を宣告されるのは、ありがたいことなのか、そうでないのかは、人によって違うであろう。前者なら、死までに期間があり、それを利用して「残務整理」などをすることができる。
死は、急に訪れることも多いため、氏のように事前に「感謝の会」などをやっておれるケースは希だ。では、「まさか」の場合に備えて、早め早めに「感謝の会」などを設けても、誰も集まってはくれないであろう。死が確実に迫って、なおかつ本人が「感謝」を表明できるほどの体力、気力が必要だ。その辺のところは難しい。
人の死生観は様々であり、善悪で判断する性格のようなものではない。時代の変遷とともに考え方が変わりつつあるのは事実だ。以前、田中好子(元キャンディーズ)が亡くなった時、ビデオメッセージを残し、話題となったことがある。(11年5月「流行るかも」など参照)
この歳になると、知人や友人がどんどん死んで行く。ほとんどの場合は、「葬儀は近親者のみで執り行われた」として、事後に連絡があるのみだ。他人が葬儀に出席することは、徐々に減りつつあるのが現状だ。
著名人は、時間が経ってから「偲ぶ会」などがあり、故人所縁の関係者が集まる機会があるが、故人にとっては関係ないことだ。生き残った者が、故人を「肴」に飲み食いするに過ぎない。すでに無機質に成り果てた故人が喜んでいるとは想像しにくい。
至近な例だが、ワガハイの故郷には一応、墓がある。後を継いだ弟はすでに他界。娘二人は、東京に出て居ついている。弟の配偶者は、田舎と東京を行ったりきたりだ。後は誰も継ぐ気配はないので、墓もいずれ「無縁仏」となる。
ワガハイは今、千葉に住んでいるが、もちろん墓はない。わざわざ造る考えもない。死んだら、骨の2ー3個でも拾って、空き瓶にでも入れて、書棚の片隅にでも写真と一緒に飾っておけばよい。3代か4代過ぎたら、古いものから順に海か山に捨てて処分することだ。
肉体は朽ち果てて「無」となるが、精霊や魂はどうなるかは不明だ。死んで見なければわからない。少なくとも、故人の証としての無機物をいつまでも大事にしておいても、あまり意味がない。「生きていてなんぼ」だ。関係者には「想い出」を残すだけで十分だ。
by everyoung
| 2018-06-06 16:39
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