2007年 09月 17日
柔道の限界 |
リオデジャネイロでの国際柔道で二つの不可解な出来事があった。一つは、国際柔道連盟(IJF)の教育コーチング理事選で山下泰裕・全日本柔道連盟理事が落選したこと。「世界の山下」でも国際的に認められなかったことになる。柔道本家もなめられたものだ。
国際柔道連盟の会長であった韓国の朴容 晟氏が辞任。新会長にオーストリアのマリアス・ビゼール氏が就任することになった。山下氏の敗北は、会長職を巡った両派の囲い込み運動に巻き込まれた結果であった。
柔道は欧州で盛んだ。その影響を受けて柔道のルールも変化を続けている。カラー柔道着やポイント制の導入などがそれだ。今後も、ランキング制の採用や商業化の推進などが検討されている。襟を掴みにくい柔道着を使用するなど武道の精神にもとるようなことを平気でやる柔道家も増えている。
もう一つは、同地で開催されている世界選手権で、井上康生と鈴木桂治が2回戦で判定負けしたことだ。両人とも日本を代表する選手である。勝負はもちろん負けることがある。明らかに負けたなら納得できるが、今回の判定には疑問が残った。審判は、柔道の本質が分かっていないように思えてならない。
武道のうち、柔道は一早く国際化した。オリンピック種目にも1964年の東京大会から採用された。当初は圧倒的な強さを発揮したが、いつの間にか金メダルがめずらしくなるほどに低落した。日本の伝統的柔道が国際的に通用しなくなったことが主な要因である。
本来武道は、生きるか死ぬかを決めるものである。ルールがあったり、勝ち負けを争うものではない。老若男女、体の大小も関係ない。どんな相手に対しても無条件で闘わなければならない性格のものである。今の世にこれは通用しない。
ではどうしたか。スポーツ化して普及させることにしたのだ。そのためには試合のルールを決めなければいけない。体重別にクラス分けしたり、ポイント制を導入して判定で勝負をつけるなどの方法も考えられた。これは武道とは言えない。
スポーツ化することにより世界に普及したが、武道の精神は希薄化した。試合で勝つための技術だけが先行して、面白みがなくなってきている。柔道ばかりでなく、剣道や空手にも試合がある。試合での勝負が優先となり「一撃必殺」のような迫力はなくなっている。
合気道は、一部の流派を除いて試合をしない。スポーツ化して、勝ち負けだけを決める意味があまりないからだ。自らの技やこころを磨くことを考えればよいのだ。それでも世界に普及している。最近、少林寺拳法も試合を止めたと聞いている。試合をすることにより、古流の技が乱れるのを恐れたのかもしれない。
空手も同様だ。空手は発展途上にあり成熟していない。流派が乱立、試行錯誤の段階だ。スポーツ空手と武道空手が混在しているのが現状だ。スポーツと武道の距離をどう調整していくかは永遠の課題であろう。空手も、オリンピック種目への採用運動を続けている。柔道の現状をよく見ておく必要がある。
国際柔道連盟の会長であった韓国の朴容 晟氏が辞任。新会長にオーストリアのマリアス・ビゼール氏が就任することになった。山下氏の敗北は、会長職を巡った両派の囲い込み運動に巻き込まれた結果であった。
柔道は欧州で盛んだ。その影響を受けて柔道のルールも変化を続けている。カラー柔道着やポイント制の導入などがそれだ。今後も、ランキング制の採用や商業化の推進などが検討されている。襟を掴みにくい柔道着を使用するなど武道の精神にもとるようなことを平気でやる柔道家も増えている。
もう一つは、同地で開催されている世界選手権で、井上康生と鈴木桂治が2回戦で判定負けしたことだ。両人とも日本を代表する選手である。勝負はもちろん負けることがある。明らかに負けたなら納得できるが、今回の判定には疑問が残った。審判は、柔道の本質が分かっていないように思えてならない。
武道のうち、柔道は一早く国際化した。オリンピック種目にも1964年の東京大会から採用された。当初は圧倒的な強さを発揮したが、いつの間にか金メダルがめずらしくなるほどに低落した。日本の伝統的柔道が国際的に通用しなくなったことが主な要因である。
本来武道は、生きるか死ぬかを決めるものである。ルールがあったり、勝ち負けを争うものではない。老若男女、体の大小も関係ない。どんな相手に対しても無条件で闘わなければならない性格のものである。今の世にこれは通用しない。
ではどうしたか。スポーツ化して普及させることにしたのだ。そのためには試合のルールを決めなければいけない。体重別にクラス分けしたり、ポイント制を導入して判定で勝負をつけるなどの方法も考えられた。これは武道とは言えない。
スポーツ化することにより世界に普及したが、武道の精神は希薄化した。試合で勝つための技術だけが先行して、面白みがなくなってきている。柔道ばかりでなく、剣道や空手にも試合がある。試合での勝負が優先となり「一撃必殺」のような迫力はなくなっている。
合気道は、一部の流派を除いて試合をしない。スポーツ化して、勝ち負けだけを決める意味があまりないからだ。自らの技やこころを磨くことを考えればよいのだ。それでも世界に普及している。最近、少林寺拳法も試合を止めたと聞いている。試合をすることにより、古流の技が乱れるのを恐れたのかもしれない。
空手も同様だ。空手は発展途上にあり成熟していない。流派が乱立、試行錯誤の段階だ。スポーツ空手と武道空手が混在しているのが現状だ。スポーツと武道の距離をどう調整していくかは永遠の課題であろう。空手も、オリンピック種目への採用運動を続けている。柔道の現状をよく見ておく必要がある。
by everyoung
| 2007-09-17 00:32
| 言いたい放題
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